「『レガシーワールド』の『レガシー』は、冠名であるのみならず、『遺産』という意味があるという」

世界夢見た名伯楽の遺産レガシーワールド列伝
 1989年4月23日生。牡(せ)。鹿毛。へいはた牧場(静内)産。
 父モガミ、母ドンナリディア(母父ジムフレンチ)。
 戸山為夫厩舎(栗東)→森秀行厩舎(栗東)。通算成績:32戦7勝(3-8歳時)。
 主な勝ち鞍:ジャパンC(国際Gl)、セントライト記念(Gll)、ドンカスターC(OP)、
東京スポーツ杯(OP)。
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レガシーワールド列伝
         

『せん馬の謎』

 競馬を覚えたての人間が必ず突き当たる疑問として、馬の性別表示欄の「セン」という記載の意味は何かという問題がある。
 
 性別欄の記載である以上、「牡」「牝」はビギナーにもわかる。しかし、何レースに1頭ほどの割合で紛れ込んでいる「セン」とは、何者なのか? この問題の答えを正しく知るには、真実を知る人間に尋ねるか、自ら本で調べるかしなければならないだろう。そして、真実を知った後に、最初一瞬思い浮かべては振り払った想像が、真実とそうかけ離れていなかったことを思い知るのである。
 
 競走馬の中には、素質はあるのに気性が激しすぎるゆえに大成できない馬も多い。そのような気性を穏やかにするため去勢した牡馬のことを「セン馬」という。人間でいうところの 「宦官」なのである。

 

『一代の名馬』

 去勢するということは、その馬の関係者にとっては大きなリスクを伴う。シャドーロールやプリンカーのような矯正器具と違って、去勢手術はいったん施してしまうと、もはや取り返しがつかない。牡馬が活躍すれば引退後も種牡馬としての価値があり、高額のシンジケートが組まれる可能性もあるが、セン馬の場合は当然その時点で種牡馬としての道も断たれてしまう。さらに、セン馬には、クラシックや天皇賞への出走の道も閉ざされている。それでは夢もないし金にもならない。そもそも情の上からかわいそうだ・・・。
 
 ということかどうかは知らないが、日本では海外に比べてセン馬が少ないといわれている。これまでの日本競馬界ではセン馬の活躍自体が少なかったし、仮にセン馬が活躍しても、関係者は逆に「もったいないことをして」と馬鹿にされるという事情もあったことからすれば、そのこともやむを得ない。
 
 しかし、日本においてセン馬の活躍が少ないのは、クラシックや盾から閉め出されて活躍の場自体が限定されていることにも原因がある。また、セン馬が活躍すると馬鹿にされるというのも妙な話である。去勢をしないまま下級条件をうろうろしていたとしたら、そんな馬が種牡馬になったりダービーに出たりすることもなかっただろうから。
 
 そして、最近はセン馬が大レースを勝つケースも出てきた。1993、94年と2年続けてジャパンC(国際Gl)で日本のセン馬が優勝したのである。かくして去勢手術の有用性が見直されたのだろうか、日本でも少しずつセン馬の割合は増えているとのことである。海外では元世界賞金王のジョンヘンリーに代表されるように、セン馬の活躍馬も多い。日本競馬は、この方面でも少しずつ本場に近づいているのだろうか。
 
 レガシーワールドは、1993年(平成5年)にジャパンCを制したセン馬である。この馬が「セン馬」の地位向上並びに普及に果たした役割は大きいといえよう。それまでにジャパンCを勝った日本馬はカツラギエース、シンボリルドルフ、トウカイテイオーの3頭のみだった。レガシーワールドは、セン馬として初めてこれらの名馬たちに名を連ねたのである。この業績は、まさに「一代の名馬」というに相応しい。

 

『レガシーワールド』

 レガシーワールドは、静内のへいはた牧場で生まれた。父はモガミ、母はドンナリディアという血統である。
 
 へいはた牧場は、幣旗力氏が(株)ホースタジマの社主を務めていた田島正雄氏に運営を任されて始まった牧場である。もともと土地、資金の準備は田島氏が行い、その運営を幣旗氏に任せるという、田島氏の個人牧場のような形で始まったへいはた牧場だったが、のちに(株)ホースタジマの所有馬として走ることになるレガシーワールドの誕生にも、田島氏が深く関係している。
 
 レガシーワールドの祖母にあたるダイゴハマイサミは現役時代に平地で3勝、障害で12勝をあげた馬だった。ところが、牝馬で障害を12勝もするようなこの馬は、男顔負けのがっしりとした大型馬だった。そこで、体型のすっきりとまとまった小型馬が好きな幣旗氏は、最初この馬を引き取るよう頼まれたとき、ていよく断ってしまった。ところがオーナーの田島氏はこの馬が大のお気に入りで、幣旗氏にぜひ引き取ってくれるよう懇請し、幣旗氏も
「恩人でもある田島さんがそこまで言うのなら」
と翻意して、ようやく引き受けた馬だった。
 
 そんなダイゴハマイサミが産んだドンナリディアは、中央競馬に入厩こそ果たしたものの、デビュー前のゲート練習中に隣の馬が暴れるのに驚いてゲート内で大暴れし、そのとき負った骨折のせいで、レースに出ることなく繁殖入りすることになった。そんなドンナリディアにモガミをつけて生まれた2番子が、レガシーワールドだった。

 

『気性難』

 こうして生まれたレガシーワールドだったが、彼には両親から受け継いだ致命的な欠陥があった。それは、気性難である。
 
 レガシーワールドの父であるモガミは、三冠牝馬メジロラモーヌやダービー馬シリウスシンボリを出した名種牡馬である。このほかにも障害で一時代を築いたシンボリクリエンス、メジロマスキットらも出しているように、スタミナと成長力に富む産駒を出すのが特徴とされていた。しかし、モガミ産駒は能力はあるものの、気性難という意味でもまた群を抜いていた。さきに挙げた代表産駒たちはいずれもその激しい気性を勝負根性、底力に変えて活躍することができたが、その気性が荒すぎるあまり、自分自身すらコントロールできなくなり、持てる能力の半分も出せないまま消えていった素質馬は、もっと多かった。
「モガミといえば気性難、気性難といえばモガミ」
とまでいわれたモガミ産駒にとって、その気性は諸刃の剣だった。また、母のドンナリディアも前述のように気性難が原因で骨折してしまい、ついにデビューできなかったという馬である。

 こんな馬たちを両親に持っているのだから、レガシーワールドについても気性が良かろうはずがない。へいはた牧場の人々も、父と母の気性が気性だけに、この点についてはおおいに心配していた。しかし、 牧場の人々の心配をよそに、レガシーワールドは最初、それほどの気の悪さを見せなかった。

 そんなレガシーワールドは、やがて「鍛えて強い馬を作る」ことで有名な戸山為夫厩舎に入ることになった。幣旗氏の息子は、一時期戸山厩舎で調教助手をつとめており、幣旗氏と戸山師とは、もともと旧知の関係にあった。その縁で牧場にやってきては馬を見ていくようになった戸山師が、この年はレガシーワールドに目をつけたのである。
 
 それまでレガシーワールドは、へいはた牧場でもそれほどの期待馬とはいえない存在だった。しかし、戸山師ほどの名伯楽の目にとまったとなれば、話は別である。戸山師や、戸山厩舎の事実上の番頭格を勤めていた森秀行調教助手(現調教師)は、早い時期から
「この馬は走るよ」
と断言していたため、レガシーワールドの関係者たちはみな、この馬のデビューを楽しみにするようになった。
 
 しかし、戸山厩舎に入厩したレガシーワールドは、このころから牧場では考えられなかったほどの気の悪さを見せるようになり始めた。両親の狂気の血は、やはりレガシーワールドの中にも流れていたのである。レガシーワールドは人間の指示を素直に聞かず、すぐに他の人や馬を威嚇するため、その扱いにはてこずらされた。

 また、レガシーワールドは、気性難と同時に、大のゲート下手だった。レースに出てきたと思ったら出遅れに次ぐ出遅れを繰り返してしまったのである。ひどい時には、10馬身の出遅れを平気でやった。結局レガシーワールドの3歳時は、実力をまったく出し切れないまま5戦未勝利に終わった。しかも、その後には骨折まで発覚し、長期休養を強いられるはめになった。
 
 そこで、戸山師はレガシーワールドに対して思い切った荒療治に出ることにした。骨折による休養期間を利用して、去勢手術を行ったのである。
 
 もともと戸山師は、スパルタ調教のみでなく去勢に積極的な調教師としても知られていた。
「馬がかわいそうだ」
という批判に対しては、
「せっかくの素質馬をあたら腐らせるのでは、それこそ馬がかわいそうだ」
と激しく反発した。戸山師を一代の名伯楽たらしめたのは、その卓越した相馬眼と、馬に対する徹底した信念だった。
 
 かくしてレガシーワールドが7ヶ月ぶりにターフに帰ってきたとき、彼の性別は、「牡」から「セン」へと変わっていた。

 

『変身』

 すると、レガシーワールドは馬が変わったように快進撃を始めた。復帰初戦は「心悸亢進」という訳の分からない理由で騎手を振り落とす大暴れを見せて競走除外となったものの、実質復帰初戦の次走で初勝利を挙げた。すると、それをきっかけに、3歳時が嘘のように結果を出し始めたのである。
 
 生まれ変わったレガシーワールドは、初勝利の後も3着、1着、1着、2着、と安定した成績を残すようになった。レガシーワールドについて森調教助手(現調教師)は
「骨折さえ治れば(同期の)ミホノブルボンとどっこい」
と言っていたが、そんな素質がようやく開花したといえた。もっとも、散々期待させられながら裏切られ続けた3歳時の反動か、生産者である幣旗氏は、勝っても勝ってもレガシーワールドの実力をいっこうに信用しなかったとのことである。

 

『宦官の復讐』

 こうして本格化したレガシーワールドの次走は、関東へ遠征してのセントライト記念(Gll)に決まった。レガシーワールドにとって、重賞初挑戦である。
 
 セントライト記念は菊花賞トライアルだが、それと同時にセン馬にも門戸が開かれている珍しいレースである。ただ、牡馬がこのレースで上位3着に入れば菊花賞(Gl)への優先出走権が与えられるが、セン馬で菊花賞への出走権がないレガシーワールドにとっては、この栄典は意味がないという違いはあった。
 
 当時のレガシーワールドは条件戦を3勝しただけであり、クラスとしては準オープンクラスだった。自己条件を使えば確実に賞金を稼げるのに、そして菊花賞への参戦資格があるわけでもないのに、レガシーワールドはあえて関東に遠征し、セントライト記念へと向かった。このローテーションには、どのような意味があったのだろうか。

 これについては、戸山師のある「意思」の賜物だった。この年のクラシック戦線は、戸山師が鍛え上げた最高傑作ミホノブルボンの独り舞台であり、既に春は不敗のまま皐月賞、ダービーを制して二冠馬となっていた。そんな時代の中で、競馬界の注目は、果たしてミホノブルボンによる不敗の三冠達成がなるのか、その一点に注がれていた。競馬マスコミの取材はミホノブルボンただ1頭に集中し、菊花賞の構図はあたかも「ミホノブルボン対その他」といった様相が強かった。
 
 しかし、戸山師の見方は違っていた。彼は、競馬マスコミはあまり注目していなかった、関東の「ある馬」を恐れていた。それが、ダービーではミホノブルボンから遅れること5馬身、ようやく2着に入ったライスシャワーだった。
 
 世間の多くは、ライスシャワーのダービー2着を「フロック」とみなした。だが、戸山師はミホノブルボンよりはるかに小さな黒鹿毛の馬体、血統、そして走りの中に、ミホノブルボンを超える長距離適性、成長力を見ていた。
「菊花賞で怖いのはライスシャワーだ」
ダービー後、親しい人にそう漏らしたという戸山師は、ここにライスシャワーが出走してくることから、ミホノブルボンとの実力差を測るために、レガシーワールドを送り込んだのである。
 
 そんな「密命」を受けていたレガシーワールドは、指示があったのかどうかは不明だが、好スタートを切って逃げる形となった。もっとも、ミホノブルボンの逃げのような、鮮やかな単騎逃げではない。むしろ、馬群の固まりの先頭、といった方がいいかもしれない。しかし、他の馬たちはやがてレガシーワールドとライスシャワーについていくことができなくなり、レースは直線では、レガシーワールドとライスシャワーとの一騎打ちになった。
 
 懸命に逃げ込みを図ったレガシーワールドに対し、ライスシャワーは外から襲いかかった。一度はライスシャワーに差されたかに見えたレガシーワールドだったが、そこからレガシーワールドは、不屈の精神力でもう一度差し返してきた。結局、レガシーワールドはアタマ差だけライスシャワーを抑えて重賞初制覇を飾ったのである。
 
 しかし、セントライト記念で3着以内に入れば貰える菊花賞への優先出走権は、前述のようにセン馬であるレガシーワールドには全く無関係だった。セントライト記念の出走馬たちの多くはこの菊花賞へのプラチナチケットを望んでいたはずだが、レガシーワールドは、それを破り捨てるためだけに押さえたようなものだった。「イヤな奴」ではあるが、これはまさに菊から閉め出されたセン馬の復讐だった。
 
 もっとも、戸山師たちは、レガシーワールドの戦いを通してみたライスシャワーの姿に対し、大きな脅威を感じずにはいられなかった。夏を越して大きく成長したライバルの現在に加えて、これから本番までの2ヶ月での成長力、そして未知の3000mという距離。その危惧は、ライスシャワーがミホノブルボンに迫った京都新聞杯でさらに大きくなり、やがて菊花賞では現実のものとなった。それは、ライスシャワーによるミホノブルボンの三冠阻止という、最もドラスティック形でやってきたのだった。

 

『裏街道』

 閑話休題。重賞初制覇を果たしたレガシーワールドだが、哀しいかなこの後は、彼に適した良いレースがなかなかなかった。もともと当時のレース体系上、有力な4歳馬は、この時期菊花賞か天皇賞・秋(Gl)に進むようになっている。しかし、セン馬であるレガシーワールドは、そのいずれからも閉め出されていた。
 
 そんなレガシーワールドは、大目標としてジャパンC(国際Gl)、有馬記念(Gl)を目指すことになった。ただ、このふたつのレースに出るためには、セントライト記念優勝だけではまだ実績不足であり、何とか他のレースを勝って実績を積み上げる必要があった。
 
 レガシーワールドは、東京スポーツ杯、ドンカスターSという2400mのオープン戦を連勝して、ジャパンCへと駒を進めることになった。連勝したレースはいずれもハンデ戦で、一流馬の出るレースではなかった。しかし、セン馬ということで活躍の場が限定されているレガシーワールドにレースを選ぶことはできなかったのである。

 

『世代の雄(?)として』

 4歳のレガシーワールドが出走したジャパンC(国際Gl)は、その年から国際Glに認定されていた。このレースに勝つことは、取りも直さず世界に認められることになる。日本競馬の新しい時代の到来である。ここで、レガシーワールドは、10番人気ながらもトウカイテイオーの4着に健闘し、実力を示した。
 
 続く有馬記念(Gl)では、先行して好位につけ、例によって逃げを打ったメジロパーマーを激しく追い上げたものの、わずかにハナ差及ばず2着に敗れた。敗れたとは言っても、もちろん4歳馬最先着である。この年の有馬記念は、二冠馬ミホノブルボンこそ不在だったものの、菊花賞馬ライスシャワーは8着、マル外の大物ヒシマサルは9着、悲劇の頑張り屋サンエイサンキューは競走中止という成績を見れば、レガシーワールドの実力が同世代でもトップクラスであることは明らかだった。
 
 レガシーワールドの1992年(平成4年)の競走生活はこうして幕を閉じた。そして迎えるべき1993年(平成5年)だが、レガシーワールドの競走生活は前年にも増して波乱に満ちたものになってゆく。―波乱の幕開けは「別離」とともに始まった。

[続く]

   
[続き「その2」へ]

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記:1998年11月28日 補:1999年5月26日 2訂:2000年6月22日
文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com 御意見・御感想は、筆者(ぺ天使)宛にどうぞ!

   

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