スーパークリークによって魅せられた人々が、日本競馬という大河の中を流れ続けている限り、スーパークリークもまた大河の中で生き続ける。

大河の流れはいつまでも スーパークリーク列伝その2
 1985年5月27日生。牡。鹿毛。柏台牧場(門別)産。
 父ノーアテンション、母ナイスデイ(母父インターメゾ)。伊藤修司厩舎(栗東)。
 通算成績は、16戦8勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞秋・春(Gl)、菊花賞(Gl)、京都大賞典(Gll)連覇、
産経大阪杯(Gll)、すみれ賞(OP)。
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スーパークリーク列伝
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(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『やがて大河となるために』

 しかし、そんなナイスデイの子に救い主が現れた。栗東の調教師・伊藤修司師である。
 
 伊藤師は、最初騎手として競馬界に飛び込み、通算150勝をあげた。その勝利の中には、チトセホープのオークス、シーザーの宝塚記念といった大きなレースでのものも含まれている。しかし、伊藤氏が本当に一流のホースマンとして頭角を現したのは、むしろ騎手から調教師に転進した後のことだった。1963年に調教師だった父の死によって厩舎を引き継いだ伊藤師は、マーチスで皐月賞を勝ったのを手始めに、大きなレースを続々と勝ち始めた。障害の帝王グランドマーチスや、「華麗なる一族」として知られるハギノトップレディ、ハギノカムイオーも手がけ、4年連続リーディングトレーナーに輝くなど、当時の関西を代表する名伯楽とされていた。
 
 そんな伊藤師は、もともと庭先取引のために柏台牧場にやって来た段階から、ナイスデイの子に強い関心を示していた。最大の問題点は脚の欠陥だったが、伊藤師は過去に同じような欠陥があったハギノトップレディを走らせた経験があり、致命的なものではないと考えていた。庭先の段階では様々な事情があって話がまとまらなかったが、かつて目を付けていたナイスデイの子がセリで二度も売れ残ったと聞いた伊藤師は、
 
 「これほどの馬を競走馬にさえできないのはもったいない」
 
ということで、知り合いの馬主にかけあって、ぜひこの馬を競り落としてもらえるよう話をつけた。そんな伊藤師の尽力もあって、競走馬になるための最後のチャンスといっていい2歳秋のセリでようやく買い手が決まったナイスデイの子は、伊藤厩舎から中央競馬へとデビューすることになった。セリでついた価格の810万円は、「馬が作る端から売れていく」と言われたバブル時代に生まれた競走馬としては、かなり安い部類に入るものだった。
 
 何はともあれ、なんとか競走馬としてデビューできることになったナイスデイの子は、競走名「スーパークリーク」として戦いの世界へと身を投じることになった。スーパークリークという競走名の由来は、建前は「最初は小川(creek)でも、やがて大河となるように」という意味であるとされている。もっとも、一説によれば馬主がこの名前を思いついたのはゴルフ場で、たまたまその時ボールをクリークに打ち込んでしまったからだとも言われているようである。

 

『地に潜む大器』  

 伊藤師は入厩当初から、スーパークリークは距離が伸びていいタイプであると考えていた。伊藤師は、スーパークリークのデビュー戦を決めるにあたっても、新馬戦に多く組まれている距離の短いレースには見向きもせず、芝2000mのレースを選んだ。これは、スーパークリークをクラシックや天皇賞を狙える中長距離馬に育てたいという伊藤師の強力な意志の表明にほかならなかった。
 
 ところで、武豊騎手とのコンビの印象が強く、ややもするとデビューから引退まで武騎手とコンビを組んでいたかのような誤解さえしてしまいやすいスーパークリークだが、デビュー当初に騎乗したのは武騎手ではなく田原成貴騎手である。
 
 この時期のスーパークリークは、慢性的なソエに悩まされていたことから、なかなか思うような競馬をすることができなかった。2戦目で初勝利をあげたところで3歳戦を終えたスーパークリークは、明け4歳になると福寿草特別、次いで南井克巳騎手に乗り替わって格上挑戦のきさらぎ賞(Glll)へと進んだが、いずれもマイネルフリッセの前に4着、3着と終わった。
 
 ちなみに、この時マイネルフリッセの鞍上にいたのが後の主戦となる武騎手だったことは、運命の皮肉であろうか。このマイネルフリッセは、やがてスーパークリーク自身の馬生にも大きく関わってくることになる。

 

『この馬の持ち味』

 とはいえ、ソエに苦しみながら格上挑戦で挑んだ重賞のきさらぎ賞でも3着に入ったことは、うまくすれば現時点でもスーパークリークの実力が一線級に通用するのではないか、という期待を抱かせるものだった。
 
 「距離がもっと伸びれば…」
 
もともとそう考えていた伊藤師は、この時春の大目標として、はっきりと日本ダービー(Gl)を意識することができた。

 「皐月賞よりもダービーを」そう考えた伊藤師は、スーパークリークを皐月賞のステップレースではなく、すみれS(OP)に向かわせることにした。すみれSは、この時期にはまだ少ない2200mのレースである。それまで2000mのレースばかりを選んで走ってきていたスーパークリークにとって、このローテーションは、明らかにダービーを意識しての予行演習という色彩を持っていた。
 
 また、スーパークリークはこの日、初めて鞍上に武騎手を迎えた。武騎手は、レース前に伊藤師から
 
「ちょっと脚を痛がっているから…」
 
と言われたため気にしていたところ、実際に乗ってみても明らかに右前脚を気にしていたことから、「こんな様子では、無事に回ってこれればいいな」という程度に思っていた。ところが、実際のレースになってみると、スーパークリークは一変した。道中よく折り合った上で、直線で武騎手が軽く追うと、もの凄い伸びを見せてくれたのである。距離延長によってステイヤーの資質が目覚めたのか、スーパークリークはパワーウイナーを半馬身抑えて優勝した。
 
 武騎手にとってもこの日のレースはうれしい誤算だった。まともに回ってこれるかどうかをまず心配しなければならなかったはずのレースでこれほどの走りができる逸材に、若き天才騎手はすっかり惚れ込んでしまった。
 
 「この馬は他人に渡したくない」
 「この馬でダービーへ行きましょう」
 
と怪気炎をあげた彼は、スーパークリークの中に、これまでに乗ってきた多くの馬たちとは明らかに違う何かを感じ取っていた。
 
 この年の春のクラシック戦線出走ボーダーは、2勝であるといわれていた。スーパークリークもこの時点で2勝馬になったにすぎないが、勝ち鞍がオープン特別のすみれSであるということで、皐月賞は登録しさえすれば出走がほぼ確実な情勢となった。しかし、距離が伸びて持ち味を発揮したこの日の競馬は、皐月賞というよりはむしろダービーへの希望を感じさせるものだった。伊藤師は、皐月賞には見向きもせず、目標をダービーに絞ることにした。

 

『いまだ時を得ず』

 しかし、運命とは皮肉なものである。スーパークリークが、皐月賞を回避してまで目指したダービーの舞台に立つことはなかった。スーパークリークは、ダービートライアルの青葉賞に向けた追い切りの際に、左前脚を骨折してしまったのである。
 
 スーパークリークは、生まれながらの脚部のゆがみゆえに、慢性的な脚部不安と戦い続けなければならない宿命を背負っていた。サラブレッドのガラスの脚は、その能力が高ければ高いほどかかる負担も大きくなる。スーパークリークの脚のゆがみは、その負担をさらに増幅するものだった。しかも、スーパークリークは脚に痛いところがあっても、人間にはそれを隠して走ろうとする変わった馬だった。スーパークリークの並はずれた賢さが、人間たちに心配をかけまいとさせたのだろうか。この時の骨折も、ソエを気にしていた右前脚をかばって走っているうちに、反対側の脚に余計な負担がかかってしまったための故障だった。人間たちがスーパークリークの痛みを知るのは、いつも彼が痛みを隠せなくなるほどに症状が悪化した後のことだった。
 
 ちなみに、スーパークリークは、3歳暮れにデビューしてから6歳秋で引退するまでの約3年間にわたる現役生活の中で、わずかに16戦しか走っていない。これも、すべては彼にとりついた脚部不安ゆえだった。
 
 こうしてスーパークリークは、その実力と器の大きさの片鱗を見せたところでのアクシデントによって、ダービーを棒に振ってしまった。大器スーパークリークが世に大きく羽ばたくためには、まだ天の時を得ていなかったというのであろうか。こうしてスーパークリークは、もうしばらくの雌伏の時を過ごすことを強いられた。

  
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記:2002年01月07日 文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
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BGM:B.S.Bach作曲 (C)「Linten to Bach!!」
ブランデンブルク協奏曲第5番BWV1050より ロ短調アッフェトゥオーソ

※BGM不要の方はhttp://www.retsuden.com/vol34-00.html へどうぞ。

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