私たちは忘れない、「彼」の背中こそが本当の「男の背中」だったということを…

―男の背中 マーベラスクラウン列伝その1
 1990年3月19日生。せん馬。栗毛。早田牧場新冠支場(新冠)産。
 父Miswaki、母モリタ(母父Harbor Prince)。大沢真厩舎(粟東)。
 通算成績は、22戦7勝(旧3-8歳時)。主な勝ち鞍は、ジャパンC(国際Gl)、
 京都大賞典(Gll)、金鯱賞(Gll)。
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マーベラスクラウン列伝

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(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『ある時代の終焉』

 1981年に創設された第1回ジャパンCの結果ほど、当時の競馬関係者に深い衝撃を与えた事象は、日本競馬の歴史の中でもそう多くないに違いない。ホウヨウボーイ、モンテプリンスといった、当時の日本競馬の頂点を極めた中長距離馬たちがことごとくこのレースに挑み、海外の二流馬たちの前に無残に敗れ去ったこの日の結果は、競馬関係者の間に「世界」への憧れを強めただけでなく、「世界」が日本競馬とは別世界であることも思い知らせるものだった。その後しばらくの間、「ジャパンカップ」とは日本のすべてのホースマンの見果てぬ夢だった。「府中に日の丸を!」という叫びは、ある意味でダービーさえも超える重みを持ってすらいた。

 それから時代は流れ、日本競馬は少しずつ世界のレベルに近づいていった。1984年にカツラギエースが日本馬として初めてジャパンカップを制すると、その後何頭かの名馬たちが彼に続き、日本馬が世界の強豪たちを相手に通用することを世界に示すようになった。ただ、日本競馬にとってのジャパンCが身近なものとなるということは、日本競馬にとって世界の高く厚い壁の象徴だったはずのジャパンCというレースの位置づけが、大きく変わっていくということでもあった。

 歴史の中で最も顕著にジャパンC、そして日本競馬の変質が形として現れたのは、1994年のジャパンCだろう。この年のジャパンカップは、来日した強豪たちが「史上最強」とも謳われていたのに対し、日本代表馬たちの顔ぶれは、あまりにも見劣りがするものだった。そのため両者の下馬評には大きなギャップが生じ、当時の競馬マスコミの中には

「このようなメンバーでは、遠い国からわざわざ来てくれた外国馬に失礼である」

という論調まで出たほどだった。

 ところが、レースが終わった後に、ウィナーズサークルで晴れがましい姿を大衆に示したのは、強いはずの外国馬ではなく、弱いはずの日本のセン馬・マーベラスクラウンだった。時代を代表する名馬はもちろんのこと、当時の「現役最強馬」というレベルにすら遠く及ばなかったはずのマーベラスクラウンが史上5頭目となるジャパンCを勝った日本馬として勝者に名を連ねたことは、日本競馬のレベルの上昇と層の厚さ、そして日本競馬にとって「世界」がもはや別世界ではないことを顕著に示すものだった。

 しかし、時代というものは、時に時代を変えた者に対し、冷酷な仕打ちをするものである。ジャパンCを制したマーベラスクラウンだったが、引退後も種牡馬になれないセン馬としての宿命ゆえに、いったん競走馬として世界の頂点に立ちながら、その後の彼の運命は数奇なものとなった。屈腱炎に蝕まれた脚で、ボロボロになってなお走り続けたマーベラスクラウンは、最後には地方競馬でその競走生活を終えた。ものも言わず、壊れかけた脚でなお戦い続ける彼の後ろ姿には、己の宿命に殉じる者のみが持つ悲しみがあった。

 セン馬であるがゆえに、戦いに生きるサラブレッドの宿命を、より純化して生き抜かざるを得なかったマーベラスクラウン。戦いとともにあった半生の中、彼がその背中で我々に物語ってくれたものは、いったい何だったのだろうか。




『高い買い物』

 マーベラスクラウンは、1990年3月19日、新冠の早田牧場新冠支場で誕生した。米国のトップサイヤー・ミスワキを父、ニュージーランド・オークスを制したモリタを母に持つマーベラスクラウンは、早田牧場の1990年生まれの馬たちの中でも期待の良血馬だった。

 マーベラスクラウンは、現役時代と繁殖時代の初期をニュージーランドで過ごした後で早田牧場へと輸入されたモリタが日本で出産した最初の産駒である。

 当時、海外の優秀な繁殖牝馬を積極的に買い求めていた早田牧場の総帥・早田光一郎氏は、1989年のキーンランドセールに行った際に、美しい栗毛の牝馬に目をとめた。その牝馬・・・モリタは、現役時代にニュージーランドオークスを勝つなど16戦4勝という成績を残していた。

 早田氏はモリタのことが気に入り、彼女のセリに参加することにした。モリタは当時既に12歳で、新しく買う繁殖牝馬としては高齢という欠点があったものの、競走成績、馬体の美しさ、そして妹もニュージーランドGlを勝った牝系の活力は、いかにも良い子を出してくれそうな予感があった。また、セリの当時、産駒が実績を残して評価が急激に高まりつつあった種牡馬ミスワキの子を宿していたことも、大きな魅力の一つだった。

 幸いというか、時はバブルの全盛期で、日本人が強い円の力で海外馬を買うのは安上がりな時代だった。早田氏は、モリタを6万ドルという、実績と血統に比して格安な価格で落札することに成功した。ドル単位でも格安といえるこの価格は、円に換算することによって、より格安なものとなった。

 もっとも、早田氏がモリタを6万ドルという安値で競り落とせたことの背景には、他のバイヤーのモリタに対する評価が今ひとつだったこともあった。12歳という年齢、母の父ハーバープリンスの知名度の低さ、毎年一流種牡馬と交配されていたにもかかわらず、さっぱりだった産駒成績・・・。

 当時の現地では、「ニュージーランドオークス馬の子は走らない」というジンクスがささやかれていた。モリタ産駒も例外ではなく、当時デビューしていた2頭の産駒を見ると、初子のモーリス(父サーアイヴァー)は未勝利で引退し、2番子のグルームポーター(父ブラッシンググルーム)も1勝をあげたきり(その後障害に転向するも、未勝利で引退)だった。それゆえに、早田氏がモリタを競り落とした時、

「あの日本人は高い買い物をしたぜ」

という声が、他の参加者の間でささやかれたという。

 しかし、早田氏は外野の声を意に介さずにモリタを日本の早田牧場新冠支場へと連れて帰り、翌年モリタは栗毛の牡馬を出産した。海外で交配されて日本で生まれた「持ち込み馬」であるその仔こそが、後のジャパンC(国際Gl)馬マーベラスクラウンだった。




『熱い期待を背中に受けて』

 こうして誕生したマーベラスクラウンは、新進の名種牡馬とニュージーランドオークス馬の子という血統もさることながら、均整のとれた馬体、皮膚の薄さ、動き、負けん気など、彼自身の競走馬としての資質も素晴らしいものを持っていた。

 早田牧場が同期で生産した馬の中には、後のビワハヤヒデもいた。ただ、こちらはいかにもぼーっとしたところがあり、牧場の人々の期待も、それほどではなかったという。冬毛が抜け替わらない状態で突っ立っていたために熊と間違えられたという逸話を持つ牧場時代のビワハヤヒデと比べて、素晴らしい馬体を持つだけでなく、俊敏で闘志を表に出すタイプのマーベラスクラウンは、大きな期待を集めていた。早田牧場のこの年の生産馬への期待の順番は、一番がエルジェネシスで、二番目がマーベラスクラウンだったという話である。

 マーベラスクラウンは、やがて栗東の大沢真厩舎への入厩が決まり、栗東の期待馬として噂となり始めた。大沢師はマーベラスクラウンの将来性を見抜いて、調教の段階から関西のトップジョッキーの一人である南井克巳騎手を呼んできた。南井騎手もマーベラスクラウンを一目見て

「この馬は、間違いなく重賞を獲れる器です」

と評したほどだった。

 しかし、神ならぬ人間たちは、マーベラスクラウンの高い評価につながった「闘志を表に出すタイプ」がくせ者であることなど、まだ知る由もない。




『希代の暴れ馬』

 このように周囲の期待を集めたマーベラスクラウンだったが、その一方で、入厩したころからたいへんな気性難を見せるようになった。ある時は引き運動の途中に突然手綱を振り切って走り出し、勝手に厩舎の中へと帰ってしまった。またある時は、攻め馬の途中で突然乗り役を振り落とそうと暴れ出したり、蛇行を始めたりした。彼は、その激しい気性ゆえに、人間はもちろんのこと、自分自身で自分をコントロールすることすら拒んだのである。

 マーベラスクラウンは、3歳9月に阪神競馬場でデビューを果たし、ダート1200m戦で出遅れるという致命的なハンデを負いながら、道中で強烈にまくって素質の高さだけで初勝利をあげた。

 大沢師ら関係者は、

「一度レースを使ったことで、競馬というものを知っておとなしくなるのではないか・・・」

とマーベラスクラウンに淡い期待を寄せた。・・・だが、マーベラスクラウンの気性難は一度レースを使っただけではまったく変わることがなく、相変わらず調教を嫌がって乗り役を振り落とした。その暴れ方たるや尋常ではなく、調教助手だけではなく、当時を代表する騎手の一人だった南井騎手までが犠牲になり、落馬の憂き目を見たほどだった。

 そんな調子の問題児が、レースになったからといって騎手の指示に素直に従うはずがない。新馬勝ちを果たした後は、もみじS(OP)3着、黄菊賞4着、エリカ賞2着という結果が続いた。無様な走りこそしないものの、気の悪さゆえに勝てるレースをことごとく落とした。気性難もまったく矯正されることないまま、調教で何度も南井騎手を振り落とし、ついに南井騎手の足に怪我をさせた。この報が馬主に届くに至って、ついにマーベラスクラウンの運命を変える決断が下された。

[「その2」へ続く]

[もう一度読み返す]
   

記:2001年01月11日 訂:2003年6月07日文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
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