「小さい頃のエピソードが、本当に何もないんだよね。あれば話してあげたいんだけど…」

永遠の幻サイレンススズカ列伝その2
 1994年5月1日生。1998年11月1日死亡。牡。栗毛。稲原牧場(平取)産。
 父サンデーサイレンス、母ワキア(母父Miswaki)。橋田満厩舎(栗東)。
 通算成績は16戦9勝(4-5歳時)。1998年度JRA賞(特別賞)受賞馬。
 主な勝ち鞍は、1998年宝塚記念(Gl)、1998年毎日王冠(Gll)、1998年金鯱賞(Gll)、
1998年中山記念(Gll)、1998年小倉大賞典(Glll)、1998年バレンタインS(OP)、
1997年プリンシパルS(OP)。
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サイレンススズカ列伝
  
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『うらめしき栗毛』

 この世に生れ落ちた、後のサイレンススズカを見たときの稲原牧場の人々の反応は、複雑な感慨が入り混じったものだった。稲原牧場では、それまでにたくさんの馬をこの世に送り出してきたが、そんな彼らにも、その子馬の美しさは際立ったものに見えた。馬体も小柄ではあるけれどとても均整の取れたものだった。

 しかし、その反面で栗毛というのは気にかかった。サンデーサイレンスは青鹿毛、ワキアは鹿毛だったから、栗毛の仔が出てくるというのは稲原牧場の人々にとっても予想外のことだった。普通仔が産まれたときに馬産家が期待するのは父、あるいは母の良さを引き継いだ仔が産まれることだから、毛色は競走成績と直接関係しないとはいえ、父とも母とも似ても似つかない毛色の仔が産まれることは、うれしいこととはいえない。当時、馬産界ではサンデーサイレンス初年度の活躍産駒の傾向や各地から伝え聞こえてくる評判馬の噂から

「サンデーの仔は青鹿毛か黒鹿毛しか走らない」

というあやしげな風評も流れていた。かつて「テスコボーイの栗毛は走らない」という噂に翻弄されたという馬産界の毛色についての迷信深さはなかなかなくならないという、良き実例の一つである。

 

『その愛しさゆえに』

 しかし、そのような風評とはまったく関係のないままに、ワキアの仔の所有者はたちまち決まった。「スズカ」の冠名で知られ、ワキアの初年度産駒でワキアの仔の姉にあたる牝馬(ワキアオブスズカ)も所有していた永井啓弐氏が、誕生の知らせを受けるとほどなく稲原牧場まで駆けつけ、購入を決めたのである。

 もともと永井氏は稲原牧場や橋田師と親しく、稲原牧場がワキアを輸入したときにも彼女を見に来た永井氏は、スピード感溢れるワキアに感心して稲原氏に

「子供が生まれたら真っ先に見せてください」

と頼み込んでいた。そして、ワキアが初年度に牝馬を産んだときに、基礎牝馬とするために牧場に残したい、と売却を渋る稲原氏に対して永井氏が発した決め台詞は、

「私が所有するのは現役時代だけで、引退したら絶対に牧場に戻します。それから、ワキアの仔は今後私が全部買わせていただきます」

というもので、その言葉に稲原氏もようやく心を動かし、ワキアの初仔は永井氏の勝負服で競馬場へと送り出された。その約束があったため、稲原牧場が最初に連絡したのは永井氏だった。無事にこの世に生れ落ちた時点で、ワキアの2番仔の勝負服はほぼ決まっていたのである。

 とはいえ、幼き日のサイレンススズカがすべての人にとって当時から後の活躍を予想させる存在だった、というわけではない。むしろ、競走馬としての能力よりはその可愛らしさが目立つのが、幼き日のサイレンススズカの最大の特徴だった。後にサイレンススズカの幼駒時代について尋ねられるようになった稲原氏も

「小さい頃のエピソードが、本当に何もないんだよね。あれば話してあげたいんだけど…」

と答えに困るほどだから、その実態も想像がつくというものである。稲原牧場でのサイレンススズカの評価は、人なつっこさ、可愛らしさは印象に残るけれど、肝心の競走馬としての能力は未知数なものに過ぎなかった。

 永井氏も、買ったばかりの頃からこの馬のことがとても気に入っていたというが、その理由は競走馬としての将来性というよりは、最初に見に来たときに印象に残った、彼のとても楽しそうに緑の大地を駆け回るその可愛らしさ、そして気品に満ちて賢そうな顔だった。

 

『ヘンな奴』

 サイレンススズカはやがて、競走馬となるための育成施設である二風谷軽種馬育成センターへと送り込まれた。ここはトウカイテイオーが幼年時代を過ごしたことでも有名な育成施設である。

 ここでのサイレンススズカ評も、当初は稲原牧場時代のそれと似たようなものだった。手のかからなさ、家に連れて帰ってペットにしたくなるような人なつっこさだけが目立つ2歳馬―。この馬が目立つ点を他に探そうとしても、せいぜい厩舎の中に入れるとなぜかいつも左回りにくるくる回る、そんなヘンな癖があることぐらいだった。

 しかし、そんな評価は馴致がある程度進んでいよいよ競走馬としての調教が始まると、一変した。乗り役がまたがって走らせてみると、その走りが他の馬とはひと味もふた味も違っていたのである。力強い蹴り、大きな跳び、無理のない走法。その何もが競走馬としての並々ならぬ才能を物語るものだった。

「こういう馬が重賞を勝つんだろう」
「いや、重賞どころじゃない。この馬ならダービーにいけるぞ」

 サイレンススズカの才能は、馴致が進んでデビューが近づくほどその輝きを増していった。そんな彼を見るにつけ、人々のサイレンススズカの将来性への期待は高まっていった。

 

『戦慄のデビュー』

 いよいよ競走馬としての馬体ができてきたサイレンススズカの入厩先は、母を日本へ連れてきた橋田厩舎に決まった。

 サイレンススズカが橋田厩舎に入厩したのは3歳11月で、同期の3歳馬の中でもかなり遅い方だが、それは橋田師がサイレンススズカの将来性を見込んで馬の成長をじっくりと待つよう頼んだためである。そんな橋田師の方針は入厩後もしばらく変わらず、栗東でサイレンススズカの本格的な調教が始まったのは、4歳になってからだった。

 しかし、サイレンススズカはたくさんの人々の期待にたがわず、本格的な調教が始まったばかりの明け4歳馬とはとても信じられない走りを見せて、周囲を驚かせた。初時計でまったく追わずにいきなり坂路800m52秒3というタイムをたたき出し、さらに新馬戦に備えた追い切りでは古馬準オープンクラスの馬を置き去りにした。もともとサイレンススズカの器には相当の自信を持っていた橋田師だが、このときはさすがに

「他の馬と入れ替わってるんじゃないか」

と己の目を疑ったという。

 サイレンススズカのデビュー戦は1997年2月1日、京都・芝1600mの新馬戦に決まった。

「大器サイレンススズカ! 」

 この噂は栗東でも評判になっていた。サイレンススズカを含めて11頭がエントリーしたこのレースだったが、サイレンススズカの人気が単勝130円という一本かぶりになったのも、調教での連日の卓越した動きから、既にこの馬が人々の注目を集める存在となっていたゆえである。

 そして、サイレンススズカのレースは圧倒的1番人気の名に恥じないものだった。スタートしてすぐに先頭に立つとそのまま後ろを引き離し、直線になってさらに突き放す競馬で7馬身差の圧勝を遂げたのである。

 この日のレース前に橋田師から

「なるべく馬ごみの中で競馬をさせてくれ」

と言われていたのは鞍上の上村洋行騎手だったが、馬なりで馬につかまっていただけなのにこんな競馬をされたのでは、せっかくの指示も守りようがなかった。こうして大器サイレンススズカは、衝撃的なデビューを飾ったのである。

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記:2000年9月19日 文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
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BGM:Hitoshi Uchida作曲 (C)Hitoshi Uchida
「That day,I wanted to see the evening sea with you.」

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