メジロライアン、それは人々の想いを競走馬としての力、そして種牡馬としての力に変える能力を持った、希有な馬だったのかも知れない―。

想いを走る力に変えてメジロライアン列伝
 1987年4月11日生。牡。鹿毛。メジロ牧場(伊達)産。
 父アンバーシャダイ、母メジロチェイサー(母父メジロサンマン)。奥平真治厩舎(美浦)。
 通算成績は、19戦7勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、宝塚記念(Gl)、日経賞(Gll)、京都新聞杯(Gll)、
弥生賞(Gll)、ジュニアC(OP)。
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メジロライアン列伝
             (本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)          

『内国産種牡馬の雄』

 日本における馬産界においてあまりにも古くから言い古されている問題点として、自前の直系種牡馬を育てられない、ということがある。

 確かに日本の馬産界での舶来志向は根強いものがある。現在も毎年のように海外で実績を残した種牡馬が輸入されて人気を集める一方で、日本で生まれて日本で走った内国産馬は、種牡馬になっても実績に見合った牝馬を集めることさえできずに苦戦する例は少なくない。内国産馬といっても、その多くは一代遡れば輸入種牡馬に行き着くにも関わらず、である。日本馬の血統水準が高まったと言われる現在でさえそうなのだから、まして世界に比べて明らかに血統水準が低かった時代に生まれた内国産種牡馬たちは、現在からは想像することさえ困難な道を歩まなければならなかった。

 そんな馬産の現実の中でも、トップクラスの成績を残した内国産種牡馬は少数ながら存在するが、そんな少数の馬たちの中でも、その産駒が種牡馬として実績を残している者となると、さらに少なくなる。内国産種牡馬の系譜が3代続いた例となると、これはもう片手で数えられるほど、というのが日本の馬産の悲しい現実である。

 実際には、血統というものはほっておけば勝手に育ってくれるものではない。ある地域で一世を風靡した血統が、数代後にはいつの間にか埋もれて血統表から消失している、というのは日本に限らず珍しい話ではない。大切に育てていってもそうしてなくなってしまうほどなのだから、はじめから育てる気がなければほぼ確実に滅びてしまうことは道理であり、むしろ当然のことである。

 そんな日本の馬産界で、代を経てなお直系として生き残っていこうとしている血統のひとつがノーザンテースト〜アンバーシャダイ〜メジロライアン〜メジロブライトと続く系譜である。特にこの系譜の3代目に当たるメジロライアンは、当初の予想では種牡馬としての成功は厳しいと考えられていたにもかかわらず、1996年にデビューした初年度産駒からGl馬2頭を輩出して人々を驚かせた。この時の成功こそがこの系統の成功を決定づけ、メジロライアン自身のみならずその代表産駒のメジロブライトの人気も下支えすることとなったのだから、メジロライアンの功績は大きいといわなければならない。

 社台ファームによって輸入され、11年連続リーディングサイヤーに輝いたのを初めとして輝かしい種牡馬実績を残したノーザンテーストの直子は多くが種牡馬入りしたが、その多くは内国産種牡馬の大多数の例に漏れず、時とともに先細りとなり、絶えようとしている。そんな中でこの系統だけは、三代にわたってGl馬となり、種牡馬として日本競馬の中にその血を深く根付かせようとしている。これは、彼ら自身にとって幸福なことであるとともに、日本競馬全体にとっても貴重な財産になっているといってよい。

 だが、この血統が残ったことは、決して偶然の産物ではない。ノーザンテーストの直系の中でもアンバーシャダイからメジロライアン、そしてメジロブライトへと続くこの系統が残ったことの背景には、彼ら自身の血に底力があったことだけではない。この血統の可能性に賭け、それを育てるための努力を怠らず、持てる情熱を注ぎ込んだオーナーブリーダー・メジロ牧場の存在があった。そして、その想いはやがて他のホースマン、そしてついには馬自身をも動かす大きな力となり、内国産血統の不利を押し返して現在へと続く血統のうねりを作り出したのである。そこで、今回は多くの人々の努力と情熱に支えられてついには内国産種牡馬のエース格の地位に上りつつあるメジロライアンについて紹介してみたい。

 

『名牝の血』

 メジロライアンは、その冠名が示すように日本を代表するオーナーブリーダーであるメジロ牧場の生産馬であり、血統は父がアンバーシャダイ、母がメジロチェイサーというものである。
 
 母のメジロチェイサーは、現役時代の実績は26戦3勝と凡庸の域を出ない。しかし、彼女の牝系はメジロ牧場の基礎牝馬シェリルのものであり(メジロチェイサーはシェリルの娘)、メジロ牧場がこれから育てていこうとする牝系だった。
 
 シェリルはメジロ牧場の創設者である北野豊吉氏が自らフランスで買いつけてきた牝馬だった。北野氏は自分で買ったシェリルをすぐに日本へ輸入して走らせるのではなく、まずは現地の厩舎に入れて競争生活を送らせた後、繁殖入りするにあたって日本に輸入することにした。
 
 そうすると、もともとシェリルは現地でも高い評価を受けるほどの血統背景を備えた名牝系の出身だったが、自らも現地の重賞を勝つほどの成功を収めた。そのため、メジロ牧場がシェリルを日本へ連れて帰ろうとすると

「そんな名血を国外に出すのはもったいない」

と。買い戻しのオファーが次々と舞い込んだほどである。
 
 そうした「誘惑」を振り切って日本へやってきて繁殖牝馬となったシェリルは、やがて期待に違わず大きな成功を収めた。天皇賞馬メジロティターンを出したのをはじめとして、繁殖としても素晴らしい実績をあげたのである。 
 
 また、その成功はシェリル1代にとどまることなく、シェリルの娘であるメジロチェイサーも、牝馬ながらに目黒記念、日経賞を制したメジロフルマーを輩出してその一族の底力を見せつけていた。そんなわけでシェリルの牝系はメジロ牧場の基礎牝系のひとつとして、とても大切にされていた。

 

『系譜の始まり』

 また、父のアンバーシャダイについては、日本の馬産界で一時代を築いた名種牡馬ノーザンテーストの初年度産駒にして代表産駒の1頭である。ノーザンテーストの子も多くが種牡馬入りしたが、アンバーシャダイはその中でも最大の成功を収めたといってよいだろう。

 ノーザンテーストは、当時から日本最大の生産牧場だった社台ファームの後継者と見られていた吉田照哉氏(現社台ファーム社長)が、
「ノーザンダンサーの子を買ってこい」
という父・善哉氏の命を受けてアメリカの2歳馬のセリで買ってきた馬だった。社台ファームの持ち馬となった後もすぐには日本へ輸入されずヨーロッパで走ったこの馬は、英仏で20戦5勝、ラ・フォレ賞(仏Gl)優勝などの実績を残した。そして、現役を引退するとともに、種牡馬として日本へ輸入されたのである。

 当時種牡馬の輸入を続けては失敗を繰り返していた社台ファームにとって、成功する種牡馬を持つことは至上命題であり、ノーザンテーストの種牡馬入りに当たっても、社台ファームはこれを全面的にバックアップした。こうした期待に対してノーザンテーストは見事に応え、後には11年連続リーディングサイヤーに輝いて、社台ファームに繁栄をもたらすことになる。

 ただ、そんなノーザンテーストの初年度産駒として生まれたアンバーシャダイは、デビューする当時はほとんど期待された存在ではなかった。幼駒時代にアンバーシャダイは、いったん買い手が決まっていたにもかかわらず、柵にぶつかって脚に大怪我にしたために、その馬主から売買をキャンセルされてしまったという過去があったためである。そんな傷物は、他の馬主に売ることもできない。そんなわけで、吉田善哉氏は仕方なく、アンバーシャダイを自分の個人名義で走らせることにした。

 しかも、アンバーシャダイのご難はこれだけでは済まなかった。入厩の季節も近づいたころ、今度はアンバーシャダイを預かることになっていた調教師が急死したのである。吉田氏は、あわてて急死した調教師と同じ関西の調教師に片っ端から声をかけたものの、みなアンバーシャダイの脚の古傷を見ると、二の足を踏んでしまう。結局関西の調教師たちの中からはアンバーシャダイを預かってくれるという調教師は現れず、アンバーシャダイは関東の二本柳俊夫厩舎へと入厩することになった。

 そんな経緯もあって、二本柳厩舎のアンバーシャダイへの期待は、それほどのものではなかった。アンバーシャダイのデビューは4歳までずれ込んだが、4歳時の戦績の12戦3勝という数字は、二本柳厩舎のスタッフの多くにとって「意外な拾いもの」として受け取られた。いちおうダービーにも出走を果たしたが、この時の空気は「出られただけでもうけもの」というものにすぎない。結果もオペックホースの9着に終わったものの、期待されていなかっただけに落胆どころかむしろ「よくやった」という声の方が強かった。

 

『琥珀色の機関車』


 しかし、そんなアンバーシャダイが変わってきたのは、5歳になってからだった。次第に力をつけてきたアンバーシャダイは、派手な連勝こそないものの、条件戦を少しずつ勝ち上がり、秋にはオープン馬へと出世した。初めての大レースとして、当時は東京3200mで行われていた天皇賞・秋に出走して4着と健闘したアンバーシャダイは、その直後に目黒記念で重賞初制覇を飾り、その勢いで一気に有馬記念を制したのである。

 この時の有馬記念では、当時の二本柳厩舎のエース・ホウヨウボーイも出走していたため、二本柳師は、ホウヨウボーイが引退レースを勝利で飾ることを望んでいた。そのため、二本柳厩舎の主戦騎手だった加藤和宏騎手はホウヨウボーイに騎乗し、アンバーシャダイは東信二騎手に委ねられていた。ところが二本柳師の願いむなしく、アンバーシャダイがそのホウヨウボーイを2馬身半も突き放して優勝したため、二本柳師は同一厩舎による有馬記念1、2着独占という快挙を成し遂げたにもかかわらず、ずっと渋い顔をしていたというのは有名な話である。もっとも、加藤騎手はこの時ホウヨウボーイの調子落ちとアンバーシャダイの元気さを見て、レース前に東騎手に

「勝つのはアンバーかも・・・」

と漏らしたという。

 有馬記念を勝って名実ともに一流馬の仲間入りを果たしたアンバーシャダイは、6歳以降も一線級で活躍し続けた。AJC杯連覇、天皇賞・春2着、有馬記念2着・・・。そして、7歳春には菊花賞馬ホリスキーに直線で一度つかまりながらもう一度差し返す競馬を見せ、4度目の挑戦でついに天皇賞馬にもなった。結局引退までに34戦11勝の戦績を残したアンバーシャダイは、その力強い走りから「機関車のようだ」といわれ、派手さこそないものの玄人ファンの人気を集めたのである。

 

『オーナーブリーダーの選択』

 しかし、そんなアンバーシャダイに目をつけた生産者がいた。それが、日本が誇るオーナーブリーダーのメジロ牧場である。

 メジロ牧場の特色は、生産した馬を馬主に売った代金を主な収入源とするマーケットブリーダーとは異なり、自ら生産した競走馬を自らが馬主として出走させて得た賞金を主な収入源とするオーナーブリーダーだということである。

 オーナーブリーダーの馬産の方向性は、その経営方法の違いゆえに、マーケットブリーダーとはかなり異なったものとなるのが普通である。つまり、マーケットブリーダーでは「いかにして馬主に買ってもらえる馬を作るか」が最大のポイントとなるため、配合する種牡馬は馬主受けのしやすさを追求した、仕上がりが早い流行血統に偏らざるを得ないところがある。しかし、オーナーブリーダーの基本は、対照的に「いかにして安いコストで、丈夫で長く走れ、確実に賞金を稼げる馬を作るか」となる。そうすると、交配する種牡馬には活躍期間が長い晩成タイプや、レースの出走頭数が少ないため確実に賞金を稼いでくれるステイヤータイプが選ばれる余地がある。実際に、メジロ牧場にも生産馬が走らず苦しい時期は何度もあったが、そうした時期にメジロ牧場を支えたのは、晩成ステイヤータイプの極みともいうべき障害レースだった。

 メジロ牧場はそうした視点から、表面的な見映えは良くなくても骨質が丈夫にできているアンバーシャダイのよさに注目した。こうしたタイプは、故障もなく長い間確実に走れる丈夫な仔を出してくれることが多い。しかもアンバーシャダイは、このようにオーナーブリーダーにとってうってつけの条件を揃えていたにもかかわらず、種牡馬としての人気がないことが幸いして、種付け料は格安だった。

そこでメジロ牧場は、メジロチェイサーの交配相手にアンバーシャダイを選んだ。翌年メジロチェイサーは、無事鹿毛の牡馬を出産した。

その子馬は、生まれた時にはなかなか独力で立ち上がれずに牧場の人々を心配させたものの、それは生まれながらの雄大な馬格と長い脚ゆえだった。無事立ち上がってみると、その仔は同期の馬たちの中でもひときわ目を引く素晴らしい馬体を持っていた。アンバーシャダイを父に、メジロチェイサーを母に持つその子には、幼名として「輝光(てるみつ)」という名前が付けられた。

[続く]

記:1999年12月13日 2訂:2000年11月30日 3訂:2002年1月28日
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