「日本競馬界史上ただ1頭の芦毛のダービー馬は、勝者のみが立つことを許される場所と同じ名前…」

芦毛の時代、未だ来たらずウィナーズサークル列伝
 1886年4月10日生。牡。芦毛。栗山牧場(茨城)産。
 父シーホーク、母クリノアイバー(母父グレートオンワード)。松山康久厩舎(美浦)。
 通算成績は、11戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)。
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ウィナーズサークル列伝
         

『芦毛の時代』

 かつて競馬サークル内に厳然として伝えられてきた迷信に、「芦毛馬は走らない」というものがあった。確かに昔は、大レースを制するような強い馬の中に、芦毛馬はほとんどいなかった。しかし、だからといって芦毛馬の能力が劣るわけではないということは、近年芦毛の強豪たちを数多く見てきた私たちには明らかだろう。

 芦毛馬が大レースを勝てなかった理由は、ただ単に絶対数が少なかったからに過ぎない。もっとも、今でも芦毛馬はサラブレッド全体の1割程度でそんなに多いわけではないが、さらに時代を遡ると、芦毛馬がもっと少ない時代があった。

 かつて日本のサラブレッド生産と競馬は、優れた軍用馬を供給という建前で始まった。アジアに冠たる軍事大国を目指した大日本帝国では優れた軍用馬も数多く必要としていたため、その安定的な供給を目指し、海外からサラブレッドを輸入して将来の軍用馬生産の基礎としようとした。・・・少なくとも、そう説くことによって軍部をはじめとする当時の権力者たちの協力を得てきた。

 サラブレッド生産と競馬自体がこのような建前で始まった以上、芦毛馬は冷遇されざるを得なかった。芦毛馬は、その目立つ馬体ゆえに軍用馬には向かないからである。そのせいで、競馬草創期には、芦毛馬が日本へ輸入されること自体が稀だった。芦毛馬は、遺伝の法則上、父、母のいずれかが芦毛でなければ絶対に生まれることはない。そうなると、芦毛の親が少ない以上、芦毛の子が少なくなるのも当然のことである。絶対数が少なければ、強豪が生まれる可能性も少ない。

 しかし、いったん「走らない」というイメージが関係者たちに定着すると、たとえ迷信であっても、一定の影響を生じることは避けられない。関係者が有望な子馬を芦毛であるという理由だけで「走らないだろう」と先入観を持って接したがために、持てる才能を発揮できずに消えていった芦毛馬たちも少なくなかった。馬の才能は、それを見抜く人がいないと生かされることはない。

 1945年8月15日、大日本帝国はポツダム宣言を受け入れて連合国に無条件降伏し、やがて解体の道をたどっていった。戦後の日本は平和憲法を制定し、競馬も軍用馬生産という従来の建前とは切り離されていったが、長年に渡って関係者たちの間に培われてきた芦毛への偏見は、一朝一夕では消滅しなかった。競馬界では、戦前と同様に芦毛馬は敬遠され続けたのである。芦毛馬が初めて天皇賞を勝ったのは戦後25年が経った1970年秋のメジロアサマ、クラシックレースを勝ったのは1977年に菊花賞を勝ったプレストウコウを待たなければならなかった。

 迷信を迷信と証明する現実なしに迷信を打ち破ることは、非常に難しい。まして競馬界とは、特にそういうジンクスを気にする世界である。ファンとてそれを笑う資格はない。「天皇賞・秋は1番人気が勝てない」・・・そんな、理屈では説明がつかないジンクスが公然と語られ、馬券の検討にも大きな影響を与えているのだから。

 しかし、そうした迷信が打ち破られる時代がついに訪れた。それは、昭和の終わりから平成の初めにかけてのことである。後世に「芦毛の時代」と呼ばれるとおり、この時期には芦毛馬が次々とGlを勝ち、一時代を築いた。タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ・・・。彼らはいずれも時代を代表する最強馬と呼ばれるにふさわしい馬たちだった。その後、芦毛旋風は一時期やんだかに見えたものの、近年は再びセイウンスカイ、クロフネ、アドマイヤコジーンを初めとする芦毛の強豪が活躍し始めている。こうした時代の中で、芦毛馬に対する偏見は、いまや完全になくなったといっていい。

 このように多くの栄光を積み重ねてきた芦毛の名馬たちだが、その彼らにどうしても手が届かなかった勲章がある。それが、日本競馬の最高峰たる日本ダービーである。

 もちろん、これらの馬たちがダービーを勝てなかったことには、それぞれの理由がある。しかし、「芦毛の時代」と呼ばれた時代に生きた名馬たちが1頭もダービーを勝っていないというのは、やはり競馬界の不思議のひとつである。そんな競馬界の中で、芦毛馬として唯一ダービーを勝ち、長年語られてきた「芦毛馬は走らない」というジンクスの嘘を象徴的に証明した馬の功績は、もっと語られていい。もしその馬がいなかったとしたら、今もって芦毛馬はダービーを勝てないままであり、ダービーを日本競馬の最高峰として憧れている人々が馬を見る際に、ダービーを狙い得る器を持った芦毛馬を見る目を曇らせていたかもしれないのだから。

 「ダービー馬」の称号を芦毛馬が手にし得ることを証明したただ1頭は、1989年(平成元年)の日本ダービー馬である。唯一の芦毛の日本ダービー馬・・・その馬とは、勝者のみが立つことを許される場所と同じ名を持つウィナーズサークルである。

 

『茨城の誇り』

 唯一の日本ダービー馬・ウィナーズサークルは、その生まれからして他の馬たちとは少し違っていた。彼の生まれは「馬産のメッカ」北海道ではなく、関東地方の茨城県だった。戦後の農地解放の際に開かれた栗山牧場の歴史は、戦後の競馬の発展とともにあった。この牧場を開いた栗山氏は、JRAの美浦トレーニングセンターの開設に力を尽くしたことでも知られている。

 ウィナーズサークルは、茨城の栗山牧場で、クリノアイバーの子として生まれた。やはり栗山牧場の生産馬であるクリノアイバーの兄たちを見ると、クリノサンフォードは中央で2勝した後に荒尾競馬へ転厩してダイオライト記念など9勝をあげており、クリノテイオーはダービー出走も果たしている。この牝系自体は筋の通ったものであり、活力にも満ちていた。

 だが、やはり馬産が盛んとはいい難い茨城の限界なのか、当時、栗山牧場の生産馬に中央での重賞勝ちはなかった。栗山牧場の馬産も繁殖牝馬自体10頭程度の規模であり、北海道に比べて土地は狭く、優秀な種牡馬が近くにいないというハンデもあった。こともあって、かなり苦しい戦いを強いられており、北海道への移転も何度も検討したとのことである。そんな栗山牧場が移転を思いとどまり続けたのは、

「何としても、茨城で北海道に負けない名馬を作るのだ」

という栗山氏の意地と誇りだった。

 

『ダービー馬の周辺』

 ウィナーズサークルの父であり、彼に毛色を伝えたシーホークは、長らく日本の競馬を支えたステイヤー種牡馬である。彼の代表産駒としては「太陽の帝王」モンテプリンスとその弟モンテファストという天皇賞馬兄弟が有名であり、さらにウィナーズサークルの翌年にはアイネスフウジンを送り出し、2年続けてダービー馬の父となっている。

 シーホークがウィナーズサークルを出したのは、24歳の時である。種牡馬としても晩成だったこの馬は、代表産駒の勝ち鞍を見ても分かるとおり、相当なステイヤー種牡馬だった。

 活躍馬を多数出して栗山牧場のエース格の牝馬だったクリノアイバーに、このシーホークを付けるよう勧めたのは、松山康久調教師だった。松山師・・・その人はかつてミスターシービーで三冠を制し、後にウィナーズサークルでダービー2勝目を挙げるその人である。

 

『神の馬』

 クリノアイバーが生んだシーホーク産駒は、他の馬と比べるとやや大柄な体躯の牡馬だった。また、この牡馬には一つおかしなところがあった。毛色は父と同じ芦毛で、それ自体は何らおかしなことではないが、なぜか生まれたときから真っ白だったのである。

 普通の芦毛馬は、生まれたときは銀色というより真っ黒に近い。芦毛馬が真っ白になるのは晩年のことで、そりまで年をとるにつれて少しずつ白くなっていく。ところが、ウィナーズサークルは生まれたときから真っ白だった。

 牧場の人々は、この不思議な馬におおいに驚いた。

「生まれたばかりなのに父親にそっくりだ」
「もしかすると、大物なのかも知れない」
「もしかすると、神の馬かもしれないぞ」

 皆でそう噂しあったという。

 やがて、成長したウィナーズサークルは、栗山氏の所有馬として中央競馬で走ることになった。管理する調教師は、彼の出生にも関わった松山師である。松山師は当時、40代前半の若手調教師に過ぎなかったが、ミスターシービーで三冠を制したその手腕は高く評価されていた。栗山氏が馬の命名を松山師に頼んだところ、松山師はウィナーズサークルという名前を付けた。

 ウィナーズサークルとは、いうまでもなく勝者のみが立つことを許される表彰式や記念撮影を行うための場所である。競走馬の名前としては、これほど縁起の良いものはそうはない縁起のよい名前である。ちなみに、松山師が名付け親となったことで知られる馬としては、他に「ジェニュイン」などがいる。

 

『問題児』

 ウィナーズサークルは、美浦でもすぐに評判の期待馬として有名になっていった。血統的に距離が伸びていいタイプと見られており、早熟さには期待できないものの、大いなる素質と将来性を感じさせる馬で、松山師も、預かった時から

「ダービーを意識して育てよう」

と思ったという。デビュー戦を北海道まで運ばず、美浦から近い夏の福島開催にしたのは、新潟開催でデビューしたあのシンボリルドルフを意識したからである。松山師は、福島開催で早めに1勝した後休養に入り、堂々と中央開催へ乗り込む、という青写真を描いていた。

 しかし、松山師の計算を狂わせたのは、予想を超えるウィナーズサークルの気性の難しさだった。彼は、どうしたことか、他の馬をかわして先頭に立つのを嫌がる癖を持っていた。先頭に立とうとすると、急に騎手に反抗する。そしてごたごたしているうちに、他の馬にかわされてしまうのである。おかげでウィナーズサークルのデビュー戦は、1番人気に推されながら、勝ち馬からは2秒以上離された4着に惨敗してしまった。

 ウィナーズサークルの困った気性に頭を抱えた松山師は、この馬のために「剛腕」郷原洋行を主戦騎手として呼んでくることにした。2戦目から騎乗した郷原騎手は、引退まで一度も他人にウィナーズサークルの手綱を譲らない終生のパートナーとなる。

 郷原騎手は、ウィナーズサークルに、まずは他の馬より早くゴールしなければならないという競走馬の宿命、そして競馬というものを教えるところから始めなければならなかった。先行して好位につけることはできるウィナーズサークルだが、先頭に立つのはどうしても嫌がる。これでは勝てない。勝てるはずがない。

 郷原騎手が騎乗するようになった後も、ウィナーズサークルは未勝利戦を二度走ったものの、いずれも1番人気に応えられず2着に敗れた。能力がないわけではないのに、どうしても馬がその気になってくれない。松山師と郷原騎手は歯がゆい思いをしながらも、ウィナーズサークルのために調教を続けた。

[続く]

 
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記:1999年5月15日 2訂:2000年8月17日 3訂:2003年2月25日
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