







BGM
(C)Listen to Bach!
J.S.Bach 作曲
幻想曲とフーガ
ハ短調 BWV537より
写真
(C)馬photo倶楽部

著者:ぺ天使
初版:2003年09月08日

▼参考文献紹介
▲BGM原曲紹介

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■1989年4月25日生。牡。栗毛。原口圭二牧場(門別)産。
■父マグニテュード、母カツミエコー(母父シャレー)。戸山為夫厩舎(栗東)。
■通算成績は8戦7勝(旧3-4歳時)。1992年JRA年度代表馬。
■主な勝ち鞍は、1992年東京優駿(Gl)、1992年皐月賞(Gl)、1991年朝日杯3歳S(Gl)、
1992年京都新聞杯(Gll)、1992年スプリングS(Gll)。
第3章:「決戦の淀、全てを賭して」(その1)
★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
秋とともに迫りくるは、逃れえぬ敗れの予感。だが、「不敗の三冠」を目指して勝ち続けたお前は、真っ白な灰になるその日まで戦い続けるという己の宿命に殉じるために、全てを賭して最後の決戦に臨んだのだ… |
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『二冠馬の帰還』
三冠への挑戦を控えたミホノブルボンは、夏を涼しい北海道で過ごすべく、戸山師と親しい吉田牧場に預けられていた。吉田牧場では、預かった現役馬は一切分け隔てせず、牡馬は良い馬も悪い馬も、すべてまとめて同じ放牧地に放牧する。
「ブルボンにもしものことがあったらどうするんだ」
という声もあったが、戸山師は吉田牧場を信頼して全てを任せ、吉田牧場もまた戸山師の信頼に応え、ミホノブルボンの夏は無事に終わった。ミホノブルボンは、9月に入って戸山厩舎へと帰厩した。秋の訪れは、ミホノブルボンの休息の季節の終わり、そして未知なる戦いの始まりを告げるものだった。
栗東に帰ってくると、春と同じように・・・あるいはそれ以上に坂路コースを力強く駆け上がる様子を見て、マスコミは
「ブルボン、三冠確実」
「二冠馬、秋も不安なし」
などと書きたてた。ミホノブルボンの肉体も春にも増して力強いものとなり、黄金色に輝く馬体は、全身が筋肉の鎧ともいうべき様相を呈していた。1992年牡馬クラシック最終章の中心たる王者による「不敗の三冠馬」への挑戦に対し、ファンの期待もいっそう高まっていく。
だが、ミホノブルボンを見守る戸山師の心情は、これらのマスコミ、そして一般の競馬ファンとは一線を画するものだった。 |
『忍び寄る翳』
戸山師は、菊花賞へと向かうミホノブルボンについて、ミホノブルボンを最も深く知るがゆえに、様々な不安を感じずにはいられなかった。
「本当は、菊花賞を使いたくないんだ」
夏の間ミホノブルボンを預かった吉田牧場の吉田重雄氏は、戸山師からそんな苦悩の言葉を聞かされたという。血統的には距離が長くなればなるほど不利とされ、無敗のまま朝日杯3歳Sを制しながら1800mのスプリングSで1番人気に支持してもらえなかったほどのミホノブルボンにとって、3000mの菊花賞は限界をはるかに超えた挑戦だった。
もっとも、距離の壁だけならば、最初は2000mさえ危ないといわれたミホノブルボンは、2400mの日本ダービーを4馬身差で圧勝している。もっと深刻な問題は、それまでミホノブルボンをずっと見続けてきた戸山師がこれまでずっと感じ続けてきた実感・・・鍛えれば鍛えるほど強くなるという手応えが、秋に入ってからは薄れつつあると感じていたことである。
「スパルタ調教」「鍛えて馬を強くする」という側面ばかりが強調される戸山師だが、実際の彼は、
「馬の成長には、鍛錬によっては決して超えられない限界がある」
ということを知っていた。馬の素質とは水が入っていない器のようなものであり、その器に水を注ぐのが鍛錬だというのが、戸山師の競走馬の資質と能力に関する基本思想だった。どんなに優れた素質を持っていたとしても、適切な鍛錬がなされなければ、器が空っぽのまま競走生活を終えてしまい、名馬となることはない。逆に、器が一杯になっているにも関わらず、その器にさらに水を注ごうとしても、水がこぼれてしまって無駄となるだけである。
鍛えることだけで最強馬がつくれるならば、戸山厩舎の馬はすべて最強馬になれる。戸山師がそれまでに手がけてきた馬のほとんどがミホノブルボンのような名馬に大成できなかったのは、そもそも競走馬の大多数が名馬たりうるほどの素質を持っておらず、それを持って生まれたごく少数の馬は、戸山師の理想とした調教に耐えられる強靭な肉体を持っていなかったためだった。
だからこそ、戸山師はその両方を兼ね備えたミホノブルボンに、早くから極限的なスパルタ調教をかけてきた。ミホノブルボンもよくそれに応え、戸山師の描く理想像どおりに強くなっていった。ミホノブルボンという器は、戸山師が注ぐ大量の水を受け入れて重みを増してきた。
戸山師は、そのミホノブルボンの器にも、限界が近づいていることを感じていた。競走馬としての完成・・・それは同時に、ミホノブルボンの競走馬としての限界でもあった。日本ダービーまで無敗のまま、6戦6勝で駆け抜けてきたミホノブルボンの優位のゆえんは、戸山師の厳しい鍛錬によって、ただでさえ他の馬より優れた資質を持つ馬が、他の馬より早くその能力を開花させた点にあった。ところが、ミホノブルボンの成長が限界に達すれば、その優位は崩れる。ミホノブルボンと同等の素質を持つ馬が、時の到来とともに成長し、ミホノブルボンの成長度に追いついてきたら・・・?ただでさえ得意とは言い難い未知の長距離で、ミホノブルボンよりも長距離適性を持つ馬と戦うことになったら・・・?
「不敗の二冠馬」が故障もないのに菊花賞を回避することなど、許されるはずもない。そうなれば、戸山師が批判されるだけでなく、ミホノブルボンまで「三冠を前にして逃げ出した」と後ろ指を指され続けるだろう。だが、3000mという、ある意味で特異な戦場が「三冠」の最終関門となることは、戸山師にとって大きな不安材料とならざるを得なかった。その不安は根拠のないものではなく、戸山師は、ミホノブルボンを脅かす存在として、既に1頭の具体的な心当たりも持っていた。 |
『確かな脅威』
戸山師の胸の奥には、ミホノブルボンが栄光をつかんだ日本ダービーで、ミホノブルボンより4馬身も後方で繰り広げられたある馬の戦いの様子がはっきりと刻まれていた。その馬は、一度明らかに力尽きたかと思わせながら、後方から襲いかかるマヤノペトリュースの姿を認めると不屈の闘志を再燃させ、小柄で明らかに未完成な馬体を駆って激しく抵抗し、ついには2着の座を死守したのである。
戸山師が恐れた馬・・・それは、ダービーで16番人気ながら2着に突っ込んできたライスシャワーだった。戸山師が見るに、その馬の血統と走法は長距離馬のそれであり、かつ晩成の大器としての特徴を備えていた。
サラブレッドの中には、「晩成」といわれる馬がいる。馬の素質は器のようなもので変えられない、と言ったが、中には成長が遅く、あまり早い時期から厳しく調教をしても、馬体の成長がついていかないため、実にならない馬もいる。こうした馬の場合、馬体の成長を十分に待ってやった方が結果が出ることも多い。ミホノブルボンは早い時期から鍛えれば鍛えるほど強くなる馬だったが、ライスシャワーはそうではなかった。・・・だが、そのライスシャワーも、そろそろ大きく成長する時期を迎えつつある。もし戸山師がダービーから感じた脅威が正しければ、夏の間に大きく成長したに違いない。彼の恐れは果たして杞憂なのか、それとも・・・。
ライスシャワーが秋の始動戦に選んだセントライト記念(Gll)の出馬表には、ミホノブルボンの名前はなかったものの、戸山厩舎に所属する別の馬と小島騎手の名前があった。戸山師の意を受けて中山へと送り込まれたその馬は、後のジャパンC馬レガシーワールドだった。 |
『贅沢な物差し』
レガシーワールドは、ミホノブルボンと同世代であるだけでなく、もともとは早くから森助手が目をつけ、
「この馬は、完成すればミホノブルボンとどっこいどっこいになれる」
と惚れ込んでいた逸材だった。気性があまりにも悪かったためにレースに集中できず、ついには去勢されてセン馬になってしまったものの、その後は着実に勝ち星を積み重ねつつあった。
セントライト記念は、菊花賞トライアルである。しかし、菊花賞では、セン馬の出走は認められていない。ゆえに、仮にレガシーワールドがセントライト記念を勝ったとしても、菊花賞に出ることはできない。一見すると無駄なように思えるレガシーワールドの選択だったが、戸山師には目的があった。
「ライスシャワーが夏の間にどれだけ成長したかを、確かめなければならない・・・」
そのために、戸山師は自分が力を把握している自厩舎の馬で、かつミホノブルボンに次ぐ実力を持つレガシーワールドとの戦いを見極めることで、ライスシャワーの成長を確認しようと考えたのである。レガシーワールドは、ライスシャワーの実力を測るための戸山師の「物差し」だった。 |
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